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「みんな」とは誰か/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて 感想 再考


「みんな」とは誰か/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて - こづかい三万円の日々


はじめに私の文章及び読解のミスの為にご気分を害されたかと思います。誠に申し訳ありませんでした。
これは私の読解や文章の表現の拙さからであり、完全に力不足でした。
更に作品を愛している理由や真意を汲み取らず私の回答を押しつけたり簡単に出してしまったこと、誤読したこともまた反省すべき点です。
今1度お詫び申し上げます。


てぎ様の仰る通り作品テーマ内には「バラバラな者達に共通項を与え一つとなる」があるのは確かなはずですし私も作品が愛されるテーマの一つとして改めて考えさせられました。
アニメ版26話+劇場版で高坂穂乃果からμ'sへ、μ'sから沢山のスクールアイドルへ波及していく様子が描かれています。その描写の比重は作品内でかなり占めているでしょう。

その一方で劇場版の秋葉原の路上ライブ後は沢山のスクールアイドルで一つであったものがラストライブでμ'sに戻り、最後には解散を迎えます。共通項が有ろうとあくまで彼女達は自分本位で自由であり続けることを選択し、それぞれの道を好き勝手にひた走ることも比重こそ少なかれ示唆されており、私はその姿にもまた感動を覚えるのです。

一つとなること、範囲内での「みんな」が一つとなることは平等と規律を与え、目標を定め、そこへ走りゆく推進力を加えていきます。
別れること、境界なく「みんな」であることは自由と選択性と混沌を産むと共に平等と規律を奪ってしまう。
様々な側面があり長所短所存在してしまう。その上描写の比重と現実のあり方は逆転してしまっている。そこにギャップを感じ、主人公達の訴えた結果があって現状を空虚と思えてしまうのは納得ゆきます。


次にリプライ内の「価値観を全く異にする人をみんなの中に含めるべきなのか」についての理由です。

少なくともアニメ内では明確に悪意ある存在、登場する人物にとって最後まで何一つ理解できない存在、μ'sやAqoursを最後まで全く理解してくれない者は多分登場してくれてない。なので仰る通り「みんな」という時には概ね支持する人間なり、何かしら共通項を有しているであるだろう者たちと考えるのは当然かもしれません。
キャストが「みんな」と指す時は、例えば
ライブの時に使用する「みんな」はその時会場やLVに来た者や映像媒体として見ているファンや裏方の人間を指していると分析出来ますし、
キャラクターが「みんな」と指す時は、例えばμ'sがA-RISEに勝てたのはみんなのお陰だということならばその「みんな」は音ノ木坂及びμ'sのファンを指していると分析出来ます。勝てた理由の「みんな」がトップのμ's、次点のA-RISE以外の他の少数派のグループがA-RISEに入れず死票にしてくれてもいたからといった意味は含めているはずがないでしょう。

キャラクターやキャストや歌詞その他 基準の存在する人間や劇的に環境や心情が変わってゆく身に置くキャラクターが口にする際の「みんな」は確かにどうあっても範囲の定まったものであり、その都度その都度「みんな」がどういった広さなのかは考えるべきでしょう。
そして限定された範囲の「みんな」を使うことで根拠の無いものに力を与えてしまうのはおかしい筈です。


しかしコンテンツとして掲げるテーマの「みんなで叶える物語」は範囲を限定するものではあって欲しくないという願望があります。

作中でも、一つになる過程の中には廃校という理不尽で過酷で彼女達を傷つける環境、矢澤にこに対して一旦は参加意志を見せても結局思想や思い描くことに合致せずついていけなくなる者 振り落とされる者、μ'sの事情など特に考えず辞めないでと訴える人間が劇場版の映像にいて、Aqoursへ期待を寄せすぎて追い詰める者まで存在しています。そして傷つきながら前進していく姿が確かに描かれているはずです。テーマやメインで描かれてはいなくても、良くも悪くもたくさんの事象が起こりあって作品とコンテンツを形成し複雑なものとなっているはずです。

現実と作品の結びつきが強い作品のカラー故にそういった過酷とも言える環境を作り出せるのは、過程の中で無理解な人間や無関心な人間、付いていけなくなる人間、或いは過剰とも言える期待を寄せる人間、裏切られたと思う人間、理不尽に傷つける存在すらも物語や顧客として取り込んであったからこそだと私は思い、「みんな」だといえるのではないでしょうか。そういった存在は果たしてコンテンツテーマとしては切断され繋がってないのか、作られていく構成要素として「みんな」と言うことが出来ないのかと思います。こんなに酷いことをする奴はラブライブの「みんな」じゃないと排除することが私にはどうしても出来ないのです。

そういった考えがあり少なくとも私にとってあらゆる存在は「みんなで叶える物語」というテーマ内で必要だと考えていますし作品の内外関係なく、過去に居た人間、これから来るであろう存在に対しても総体な意味で「みんな」でなくてはならないと思っています。
もちろん私が大嫌いな人間、関わりたくない人間は沢山います。その存在を理解する必要も、共感する気も肯定しきれてもいないでしょう。ただ存在そのものだけは認め「みんな」から排除することを絶対にしないのは排除までしてしまうと私の重視する、構成要素となるべき多様性が崩れることに繋がるからです。



ブログ内でも言及されてます通りラブライブのファンが過去一つになった時があるのか、私は存じません。
原点から現在までずっと一つになることなく拡散し続けていても実は我々の知らぬどこかで一つになっていたのか、これから一つとなるのか、一つになった後また拡散しているのか
現実は物語よりも遥かに過程だけが続いていくもので、結果というものが出せるかも分からず、その結果だと思っているものも過程なのかもしれない。ずっとずっと問いかけていくものなのでしょう。こうやって私が文章としてやり取りすることが何かしら意味があるのかもまだ分からないまま。

最後に てぎ様にとって私という存在は一つとなって欲しい存在か問うことに、私は自信がもてません。曖昧な書き方をしていると感じさせてしまう部分も多々あるでしょう。面を合わせようものなら私の倫理も価値観も違いすぎて殴り合いが起こってしまう可能性まで考えています。
私が他者を排斥しないのは単に自分が排斥されない自己防衛と自信の無さの裏返しととられても仕方がない。
もしかしたら自覚なく特定範囲の「みんな」という場を欲していながらそこに規律や何か目指すことを拒み、自由であり続けようとする私、何かに対して傷つこうとしない無頓着な私ゆえにこのような考え方を持ってしまっているのかもしれません。

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